布引観音とは
布引観音(ぬのびきかんのん)は天台宗布引山釈尊寺が正式な名称です。信濃三十三観音霊場の第二十六番札所に定められています。信濃三十三観音霊場は、江戸時代の初頭に定められたと伝えられ、いずれの寺々も善光寺への古き街道筋にあることから、善光寺信仰とも深いつながりを持つと考えられています。本尊は聖観世音菩薩です。
布引観音は布引山中にあり、駐車場から徒歩15分参道を登ります。参道はけわしい山道ですが、滝や牛馬の形をした奇岩、多種の仏像など、たくさんの見所があります。そびえたつ崖に観音堂があり、京都清水寺にも喩えられます。観音堂の奥には、山頂展望台へと続く登山道がありますが、現在は通行できません。
牛にひかれて善光寺参り
信濃四大伝説「牛にひかれて善光寺参り」
昔、善光寺から東に十里(約40キロメートル)離れた信濃の国小県郡(現在の長野県東御市)に強欲で信心の薄い老婆が住んでおりました。この老婆が千曲川で布をさらしていたところ、どこからか一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。老婆は驚きましたが、布惜しさに野を越え、山を越え、牛の後を追いかけました。そして気がついてみると、善光寺の境内まで来ておりました。老婆はやっとのことで牛に追いついたと思ったのもつかの間、牛は金堂のあたりで姿を消してしまいました。驚きと悲しみに疲れ果てた老婆はあっけにとられてその場に佇んでしまいました。
やがて日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明が差し、その霊光の尊さに思わず跪いて菩提心を起こし、一夜を金堂に篭って罪悪を詫び、家に帰って参りました。これは布引か観世音菩薩が牛に化して信心うすい老婆を善光寺阿弥陀如来の許に導いて教化したのでした。
ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹付けられているではありませんか。老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが断崖絶壁で取るすべもありません。一心不乱に念じているうち、布とともに石と化してしまったということです。布引山の断崖には今も白く布の形をした岩肌が眺められます。
(善光寺で配布されている解説では、牛は善光寺阿弥陀如来の化身とされ、不信心を悔いた老婆はその後もたびたび善光寺を参詣し、極楽往生したことになっています。)
小諸市による立て札および善光寺で配布している解説からまとめました。
布引観音の歴史
神亀元年(724年)に行基によって開かれたという説、
天平二十年(748年)聖武天皇の勅願で行基が一宇を建立し、聖徳太子作の聖観世音菩薩像を安置したのに始まるという説があります。
天文17年(1548年)武田信玄が楽厳寺入道・布下仁兵衛を攻略した際に焼失しました。
弘治2年(1556年)に望月城主滋野左衛門佐が再建しました。
享保8年(1723年)に再び焼失しました。
現存する伽藍の大半は小諸城主牧野周防守康明によって再建されたものです。
また、江戸時代後期に小諸藩主牧野康明によって、現存する堂宇の大半が整備されました。
布引観音の重要文化財など
重要文化財
観音堂宮殿(かんのんどうくうでん)正嘉2年(1258年)造立
観音堂内にある仏殿形の厨子で、「建造物」として国の重要文化財に指定されてます。入母屋造、板葺。軒下の蟇股(かえるまた)や、地長押の下の格狭間(ごうざま)など、細部の形式に鎌倉時代建築の特色を示しています。
懸造り観音堂(天正二十年1592建立)
長野県宝
白山社社殿(はくさんしゃしゃでん)
この社殿は往時、御牧原の白山地籍よりここに移築されたと言われています。一間社春日造、屋根は柿茸、破風、木連格子、鬼板の「ひれ」および水玉模様のような丸紋などは、大面取の柱とともに、室町時代中期を下らない時代の特徴を良く表しています。
昭和34年(1959年)に修復され、同年、長野県宝に指定されました。
名跡
本堂・太子堂・護摩堂
布引山釈尊寺縁起
牛に引かれて布引の 山々布引く釈尊寺 御寺を詣る人々は 山の縁起をたづね見よ
寺は聖武の御時に 僧の行基が開基より 西行法師も三年へて 晒らす御歌を残しけり
それその昔なつかしく 千曲川辺の赤岩や 信心浅き夫婦等が 世にも稀なる言ひ傳ひ
或日媼は留守居して 川に布をば晒せしが 一匹の牛現れて 布をば角にかけり行く
媼驚き後追いて 北へ走れば善光寺 思はず詣る御仏の 光り仰ぎてひざまづく
戻りて仰ぐ布引や 山風時にあれいでて それかと見れば岩上に 晒せし布を吹きつけぬ
今布岩の名もそれよ 取るにすべなき岩壁を 見る見る媼は日を過し いつか化石となりにけり
翁媼を探しきて 化石となれる悲しみに 岩にまばゆき布見つつ 烟と遂に消へ失せぬ
後人それを憐れんで 祠を立ててまつれるか 牛と化せしもありがたや 聖徳太子の観世音
霊験日々に新たにて 光りかがやく布引の 山の真清水くむ人は 心すまさぬものぞなき
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