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真田左衛門佐(左衛門佐は官位、信繁が本当の名。幸村というのは江戸時代になってからつけられたもの)は勇猛・忠義の将として後世に名を残していますが、大阪の役までは無名の武将でした。しかし、大谷吉継の娘を吉継の全盛期に娶ったことや、上杉景勝の元にいた時に父の真田昌幸が無断で豊臣秀吉の元へ幸村を送り、それに対し上杉景勝が幸村を返してほしいと文書を送ったことから、有望な将と見られていたのではないかといわれています。 「鬼のようなる真田・・・」などと勇猛果敢な印象が強い真田幸村ですが、兄真田信之によると「物ごと柔和忍辱にして、強しからず」とされ、柔和で無口な武将であったようです。若武者のように描かれることも多い幸村ですが、大阪の役当時は四十代後半でした。髭も白くなり、歯も抜け、腰も曲がり、病気がちといった手紙を出しており、大阪入城の際は山賊と間違われすぐに入城できなかったともいわれています。その柔和な性格からか豊臣秀頼からの信望が厚く、頼りにされていたようです。しかし、周囲からは妬まれ、苦労している様子なども手紙にしたためていたようです。 真田昌幸は幸隆から受け継いだ砥石城を本拠地として、その領土を守っていましたが、東から北条、徳川、北から上杉と大きな力を持った大名に圧力をかけられ、非常に苦労をしていました。天正十年頃昌幸は徳川家康につき、北条氏直と戦っていましたが、北条・徳川の間に和議が成立し、両軍が引き上げたあと、小泉氏によって使われ、廃城になっていた上田城を改修・築城しました。真田屋敷のあった原から原町が、一族発祥の地海野から海野町など移民も進み、城下町ができあがっていきました。 併設されている市立博物館には多くの資料が展示されています。 池波正太郎は信州をこよなく愛し、真田氏にまつわる物語をたくさん書きました。その集大成が真田太平記です。真田太平記館で池波正太郎と真田太平記の世界を感じてみてはいかがでしょうか。 上田城跡にあります。幕末に藩主だった松平家の氏神で松平(しょうへい)神社と称していましたが、戦後上田神社と改称、その後、真田氏、仙石氏も合祀されて真田神社となりました。 上田城鎮護の神社です。弓矢の神として崇敬が厚い神社で、真田昌幸が本海野から移築しました。 天正十五年の真田昌幸と慶長五年の真田信之の安堵状が残されています。上田の最も古い神社のひとつです。祭神は恵比寿様と諏訪様です。 天正十一年、真田昌幸が上田城築城の際、鬼門を守るため本海野から移してきました。旧名は開善寺といい、海野氏の祈願寺として長い歴史を誇っていました。真田昌幸が本海野から移築しました。 開山は什慶、中興は慶英といわれ、上田城の堀近くにあったものを真田昌幸が移築しました。 常田にあります。大己貴神(大黒様)、事代主神(恵比寿様)、建御名方富命(諏訪様)を祭ってあります。境内には滋野一族が牧場を営んでいたことを知る駒形稲荷と六所明神が祭られています。 海野幸氏と刀を交えた曾我兄弟の兄、十郎の妻虎御前が兄弟の菩提を弔うために建てたといわれています。 真田昌幸が下之条から移築しました。真田信之の妻小松姫の墓があります。小松姫は本田忠勝の娘でのちに徳川家康の養女となっています。女丈夫中の女丈夫といわれ、婿選びの際には大変失礼な態度を諸大名に対して取りました。誰もが家康にひれ伏す中で横柄な小松姫を鉄扇で打ち据えたのが真田信之でした。信之に感服し、小松姫は信之の許に嫁いだといわれています。また、関ヶ原の合戦の際に信之は父昌幸・弟幸村と別れ、徳川方につきました。敵味方となった以上、沼田城に昌幸・幸村父子が立ち寄ろうとしても留守を守る小松姫は父子を城内に入れなかったという逸話もあります。賢夫人ぶりを発揮する小松姫は昌幸・幸村父子が九度山に配流されたのちは、度々手紙や物資を送り、父子の生活を支援したそうです。 本海野の興善寺の末寺で海野幸善の法名日輪寺殿から名づけたといいます。真田昌幸が本海野から移築しました。 松平氏の時代、その菩提寺となりました。真田昌幸が本海野から移築しました。
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