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当店から車で10分ほどの東御市本海野は、真田幸村、昌幸、幸隆で有名な真田一族の本家筋とされる名家海野一族ゆかりの地です。真田昌幸が上田城築城の際に海野の庄から寺社や町を上田市に移しましたが、その後北国街道の宿駅となり、海野宿として栄えました。海野宿の開設は寛永二年(1625年)で、享和年間には旅籠が二十三軒、伝馬屋敷が五十九軒もあり、非常ににぎわっていました。宿場町の建物は重要伝統建造物群保存地区に指定され、多くの観光客が訪れています。 真田氏のルーツ海野氏とは、信州の名家滋野氏の分家で、滋野三家といわれています。滋野氏の成り立ちには諸説がありますが、紀伊国造を祖とする古代貴族・滋野氏がルーツではないかともいわれています。滋野氏は海野、望月、禰津の3氏に別れ、海野氏が宗家です。海野の嫡流は代々小太郎と名乗っていました。海野幸広は木曽義仲の将として活躍しましたが、平氏と戦って戦死しました。真田の家紋六連銭(正式には六連銭、一般に六文銭)はこの頃から使われた始めたとも言われています。幸広の長子幸氏は源頼朝の人質となっていた木曽義仲の嫡子義高に従っていました。義仲が討ち取られると幸氏は義高の身代わりになり、義高の脱出を助けました。義高は討たれましたが、幸氏は忠義者として頼朝の御家人に加えられ、弓馬の達人として、また曾我物語における十番斬りの登場人物として名を残しています。幸氏は群馬県吾妻郡嬬恋村にも所領を得ていたため、真田幸隆、昌幸の上州進出の基盤はこの頃から築かれていたといえます。 1541年信州支配を目論む武田信虎は村上義清、諏訪依頼重と連合し、海野・禰津・矢沢の滋野一族を攻めました。矢沢頼綱、禰津元直らは降参し、海野の嫡男海野幸義は戦死、真田幸隆、海野棟綱は上州(群馬県)に逃れました。真田幸隆はその後、羽尾入道幸全、沼田の名胡桃城、箕輪城主長野信濃守などを頼って転々としました。箕輪の長源寺に寄寓した折、晃運という僧侶に良くしてもらったため、旧領を回復した後は真田に長谷寺を建て、晃運を招いて開山しました。その後幸隆は武田信虎を国外追放した武田晴信(のちの武田信玄)に仕え、その才能を如何なく発揮しました。難攻不落といわれた戸石城(砥石城)を村上義清から取り戻し、その子の昌幸の代までかけて信州・上州にまたがる領地を確固たるものとするとともに、離散した滋野一族をまとめあげていったのでした。 望月氏は名馬の産地望月の牧と密接な関係を持っていました。巫女や舞太夫、修験者を支配し、強力な力を持っていました。
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